現在の基本的なシステム、国家があり、企業があり、市場があり、地域社会や家族がある。これが日本でも、あるいは日本以外の国々でも、いろいろなかたちで危機問題を深化させている。しかし、解体現象を次々数え上げるというのではなく、解体現象の裏に隠れている、何かポジティブな動き、未来を予兆として示すような動きを、われわれが主体的に受け止めるというところがポイントになろうかと思います。その何よりの中心に、「アソシエーションの波」というものが数えられるのではないかと思います。
21世紀われわれの前に宿題として出てきた一つの大きな問題は、20世紀に中央政府が肥大化し、しかも時代の推移の中でいわゆる主権国家の機能がたいへん落ちているということです。
肥大化した国家に集積したいろいろな権限、権力を市民のアソシエーションに積極的に委譲させて、市民が公共的な機能をどんどん担っていく。こういうかたちで国家を分権化していく動き、これが「アソシエイティブ・デモクラシー」の動きで、一つの大きな文脈ではないでしょうか。
もう一つの文脈は、「ポスト・フォーディズム」です。フォーディズムは、大量生産、大量消費、大量廃棄の経済システム、右上がり成長のシステムであったわけですが、これがここにきて、いろいろな方面で破綻をきたしている。ポスト・フォーディズムの経済の特徴を見てみますと、一方ではマネーゲームがあり、巨大な規模での資本の再編成がある。しかし、それだけを見ていては間違います。人と人との生活領域で密着したサービスは、地域経済、エコロジー、雇用問題などとの絡みで、いわば従来型の資本主義経営とは違って、新しい協同労働のかたちで編成されていく兆しが出てきています。
経済というのは、たとえばアリストテレスの経済学を考えますと、倫理と経済というのはワンセットです。ところが、近代の経済は、急速に人と人との関係を物と物の関係に置き換えていき、貨幣という媒体が逆に全体を支配しています。では、そういうことをどうしたら避けられるか。つまり、モラルとエコノミーをもう一度ドッキングし直さないといけない。たとえば倫理学でいうと、ステイクホールダー倫理学です。ビジネス倫理を、利害関係者、消費者とか、地域住民、あるいは取引業者、同業者というステイクホールダーたちの関係で、公開、説明責任、協議を通して権力のモラルコントロールをしていこうという方向で、モラルとアソシエーション、モラルとコミュニケーションの結びつきを回復していく方向で、未来が進みつつある、こういうこともいえるのではないかと思います。
外交領域は中央政府が独占してきましたが、今日独占が打破されてきて、NPOという、これもいろいろな問題を抱えているわけですが、世界市民的な連携でつながる人々が知的にもストックする、実践的な能力も持っている、草の根とのネットワークも持っている、とこういうかたちで、外交領域でいわば否定できない力を付け始めているのも事実です。
生活領域ではどうでしょうか。家族がやせ細っております。未来のあり方としていうと、共同性は家族が全部担わないといけないという古い考え方がもう通用しなくなっているわけですから、家族の共同性には良い意味、不可欠な意味もありますが、非常に限界もあるわけで、たとえば子育てネットワークとか、セルフヘルプ・グループとか、市民の枠組みで共同性をつくり上げていくということがないと、家族の危機も、ただ危機だ危機だというだけの話で終わってしまうわけです。
最後に社会主義です。19世紀の社会主義はアソシエーションがキーワードだったのです。社会主義とかマルクスとかいうのは、歴史的に重たい存在なわけで、良いところも悪いところも全部踏まえたうえで、いったい何を意味したのか、意味するのかということです。ソ連型の社会主義が軒並み崩壊しました。システムを崩壊させた力は何であったのかを、もう一度考えなければいけないでしょう。市場に負けた、あるいはマルクに負けたとよく言われますが、そんな単純なものではなく、やはりアソシエーションの自由を組み込めないシステムが負けた。民衆の反乱の前に質的に負けた。しかし最終局面では、市場経済、これがいわば歴史的パワーとなって前景に出た。その重みは自覚しておかないといけません。
アソシエーションの波を理論的なレベルで見てみたいと思います。レスター・サラモンは、20世紀の終わりごろに、東側でも西側でも、北でも南でも非営利セクターが急速に伸びを示した、これはいわば、19世紀に国民国家が一斉にできたのとよく似た現象であって、これは「アソシエーション革命」と呼ぶべきだといっています。しかも、「グローバルなアソシエーション革命」だと表現しております。私はその点はたいへん共鳴しますが、いくつか留保をつけております。
第一に、「アソシエーション革命」を、20世紀の後半に急激にNPセクターが増大したという指標だけで考えるのではなくて、むしろ21世紀のわれわれの課題として、「アソシエーション革命」を考えるべきではないか。第二は、サラモンらの調査は協同組合を抜いているわけで、これは非常に大きな欠陥である。ヨーロッパの学者たちは、NPセクターだけで第3セクターを考えてはいけないと反論しております。第三に「アソシエーション革命」というときの「革命」とは何なのかということです。国民国家とか市場経済というものを全的に排除することを前提にして考えるのではないにしても、それらに対してアソシエーション的な関係とか、アソシエーションの力がドミナント(優位)であり得るようなシステムへと、現状を決定的に超えていないといけない。そういう意味で、「アソシエーション革命」を了解したらどうだろうか。
「国家権力掌握から社会革命へ」という路線を選べば、成立するシステムも国家中心にならざるを得ない。もちろん「政治システムを社会改造の手段として用いることは原則的に間違っている」というのは間違っていると私は思います。いくつかの原則を確認したうえで、国家的手段、政治的手段も社会革命の促進要因として利用する力量を持たないといけない。まず第一に、社会革命、社会改造は、基本は社会自身の力で、社会に内在するパワーで、社会の自己変革として行なわないといけない。第二点は、既存の国家そのものを放置するのでなく、アソシエーションの視点から、アソシエイティブ・デモクラシーへと大幅に変容させないといけない。フランス革命などに範をとった古典的な革命のイメージから脱却し、新しい社会変革をわれわれは目指さなければならないのではないかと考えます。
「アソシエーションの波」が押し寄せた結果、経済領域ではアソシエーション・セクター(第3セクターと呼ばれる場合が多い)の国際的実態調査が進み、経済セクターとしての分離独立が広く主張されるようになりました。物象化された世界をあつかう私的セクターの経済学や公権力によるマクロ調整をあつかう公的セクターの経済学とは異なる、新しい経済学の展開が迫られてくるでしょう。なぜなら生活世界にとっての経済行為の意味やモラルと経済行為の不可分、さらには経済調整における議論の規定性といった、第3セクターの特質を理論化する形で、経済学の自己変革は避けられないからです。
もう一つ大きな動きとして、政治領域ではデモクラシーとアソシエーションの結びつきという問題です。リベラル・デモクラシーはほぼ全世界的に受け入れられたと言えます。一部に言われているように、リベラル・デモクラシーでデモクラシーは終わったかというと、現実にはそうなっておりません。リベラル・デモクラシーの限界を克服しようとするする運動が実際展開されている。そういうものをひっくるめて、ラディカル・デモクラシー、根本的民主主義と言います。アソシエイティブ・デモクラシーはその中の重要な実質をなしております。第一は市民の諸アソシエーションが公共性を担う方向で公権力は過度に集権化した権限をどんどん「委譲」する。第二は政治参加を投票に限定せず、権力とアソシエーション間、アソシエーションとアソシエーション間の情報公開や説明責任や協議、論争などコミュニケーション面での参加を促す。第三は政治や統治(ガバナンス)という概念をもっと広くとって、たとえば企業の中にも権力があり統治がある。その権力や統治を、みんながどうコントロールするか。こういうかたちで、デモクラシーの領域を拡大していく。「アソシエーションの波」は経済領域でも政治領域でも、したがってまた学問領域でも、大きな変革をはらんでいることがおわかりいただけるでしょう。
NPOなどを考えるときに、いつでも引用されるのがトクヴィルという19世紀のフランスの政治思想家です。この人がアメリカを視察して、近代における「社会管理のルール」を確認しています。近代になりますと個人が目的存在になり、平等になります。一方に大きな国家という権力があると、これに対して個人は組合にも入っていない個人、都市流入して真っ裸な個人が出てきて、個人がたいへん無力化します。したがって、個人が「アソシエーションの術」を身につけないと、国家に飲み込まれてしまいます。多くの社会学者たちは、トクヴィルのアソシエーション論に依拠して「中間集団」論を展開しております。一方に全体社会がある。他方に家族なり個人がある、その中間集団がないと駄目ですよ、自由も守れませんよ、平等も守れませんよ、文明も守れませんという考え方です。
トクヴィルの指摘は当たっているのですが、縦軸しか言っていない。しかし「アソシエーション革命」は、縦軸と横軸のクロスした所で問われてくるということです。横軸とはグラムシの言うヘゲモニーです。支配的な価値やモラルや生活様式も単に公権力だけで担われているのでなく、民間の諸アソシエーションが体制側にたって人々を教え、同意をとりつけて再生産している。だからわれわれが新しい価値やモラルや生活様式を対抗させるというときにも、ただ言葉で対抗するのではなく、対抗的アソシエーションをつくって、影響力を戦わさないと駄目です。そういう影響力を戦わすことをグラムシはヘゲモニーと言った。われわれはとりあえず対抗的アソシエーションとして、われわれの新しい生活様式や価値やモラル、新しい意思決定のあり方、ガバナンスのあり方、こういうものをつくり上げつつ、ヘゲモニーを争うのです。そういう意味で、いわば横軸の考え方が不可欠です。
ウォーレンという学者が、2000年に『民主主義とアソシエーション』という本を出しました。ウォーレンの市民社会の定義は「市民社会とは、自発的なアソシエーショナルな諸関係がその内部でドミナント
(優勢)であるような社会的組織化領域である」というものです。ではアソシエーショナルな諸関係とはどういうことか。「コミュニケーションを通した規範的影響力に基づく関係である」。市民社会はさまざまな規範を巡る議論をやって、論拠のよさで争って合意を形成する、そういう人と人との関係です。ところが現存システムの方はどうかと言えば、政治システムは位階制で動き、経済システムは市場競争で動き、親密圏は愛情
(感情)で動いている。だから政治システムや経済システムや親密圏との中間にどんどんアソシエーションを作って、「規範的影響力にもとづく関係」を拡大浸透させていかねばなりません。中間にあるアソシエーションは当然、位階制や市場競争や情的一体性を部分的に受容し、下手をすると「植民地化」されます。つまり脱アソシエーション化する。しかしまた、脱アソシエーションに対するブレーキもかかる。現実のアソシエーションは、自身がいわば中間的なポジションを占めながら、二つの対抗的な力をその中で再生産していく。こういう歴史プロセスをイメージしながら、アソシエーショナルな関係が優位であるようなシステムへと変えていかないといけない。多少私の読み込みを交えて言えば、ウォーレンの議論はそのようになるのではないでしょうか。
(1)人類は500万年、自生的共同体で生きてきました。定住し始めるのは9000年ぐらい前の農業革命からです。これ以降が文明社会です。しかし農耕社会になっても、依然として基本は自生的共同体で生きております。個人が目的存在として立っていず、全体社会に服属している。濃密な人格的一体性が支配しているシステムと考えましょう。自生的共同体は現在では家族などとしてかろうじて再生産されています。
(2)ところが農業革命が起こって、国家ができてくる。人々を束ねて社会的な力を組織するようなシステムです。ただし社会的な力は、束ねられた人たちの共同の力としてでなく、束ねている人々の権力として現れる。これを外化形態といいます。権力社会は現在でも公権力や経営権力として再生産されています。
(3)しかし、こういう自生的共同体や権力社会を解体したパワーは、他ならぬ商品交換社会です。個人が
(ただし私利追求主体として)はじめて目的存在となりました。「儲けのあるところそこがふるさと」と閉鎖性を打破しました。自由な売買交渉や「お金に貴賤なし」が定着し、個人の尊厳、自由、平等、開放性といった近代の原理が準備されてきました。しかし個人が目的存在として歴史的に立ち上がれる最初の姿でしかなかったのです。ここでは人と人との関係が、物と物との関係としてひっくり返ったありかたをしており、そういう世界で初めて個人が個人として目的存在になったということで、そのことの限界がいま露呈してきているわけです。
(4)したがって、われわれが新しい「アソシエーションの波」とか、「アソシエーション革命」へと言っている、こうした新しい動きが生じてきます。アソシエーション(結社)の自由がイギリスで最初に認められたのは1824年です。アソシエーションはもともとは、諸個人が自由意志に基づき、共通の目的を実現するために、力や財を結合する形で社会を生産する行為を表し、またそれによって生産され、協議により自治的に運営される社会を表します。権力システムや市場競争に対して、こういう関係がドミナントであるようなあり方をめざすのが「アソシエーション革命」だと言えるでしょう。人類史的に見て、共同性の回復は、個人が全体社会に服属する自生的共同体への回帰という形でなく、自由な個人と結合しうる形態で目指されるのです。