現在、歴史教科書問題、靖国問題いずれも緊迫した状況にあります。
中国や韓国から厳しい批判が繰り返し向けられている。だから、ともかく隣国の人々とあまり関係が悪くなってはいけないので、とりあえずやめたほうがいいのではないか、という判断をする方もいるかと思います。
いったい何が根本問題なのか、みんな、感情的に議論しているようだけれど、一方ではA級戦犯の問題だといわれたり、他方では政教分離論議のほうが問題だといわれたり、日本文化の問題だといわれたり、死生観の問題だといわれたり、いろいろいわれていて、何がポイントなのかわからないということがあると思います。
歴史教科書問題も本質的には、歴史認識の問題という意味では共通しておりますので、きょうは靖国のほうに重点を置いてお話ししていくつもりです。
1.英霊の慰霊・顕彰
靖国神社の役割は二つあります。まず第一の役割は、「英霊の慰霊、顕彰」であるということです。戦没者を英霊としてその霊を慰めると同時に、その功績をたたえる顕彰する。顕彰というのは、功績をたたえるということです。そういう役割を担っています。
多くの日本の多くの人々は、靖国神社は戦争で死んだ日本人をあそこに祀っているのだから、追悼の思いを込めて首相も行くのだと思っているふうがあります。しかし、追悼ということと顕彰ということは、およそ異なることで、むしろ追悼感情を押し殺さないと顕彰ができません。顕彰というのは、功績をたたえるということで、むしろそれは顕彰されることによって遺族にとっては家族の戦死が名誉の戦死だったということで、誇らしいことになるわけです。そういう評価を与えるのが顕彰であります。
靖国神社は追悼感情、悲しみの感情を抑圧して、むしろそれが褒め称えるべき立派な死だったというように顕彰して、子どもたちにも、英霊に続いてお国のために立派に、自分を犠牲にしても尽くしなさいという教えをおくることが、慰霊と顕彰をやるのが第一の目的、役割であるといっています。これは、宗教法人靖国神社の基本的な使命だということができるでしょう。
2.近代史の真実を明らかにする
靖国はもうひとつ自分たちには役割があるということを、とりわけ近年強調してきております。近代史の真実が捻じ曲げられているというのが、靖国神社の歴史観であり、「近代史の真実を明らかにする」ことです。靖国神社の付属の軍事博物館である「遊就館」を見学された方はおわかりだと思いますが、幕末維新から以後の日本の対外戦争すべてを対象とし、日本の戦争は、すべて基本的に自存自衛のための戦争であり、またそれは、欧米の植民地支配からアジアを解放する、アジア解放の戦争であったと、言っています。
植民地支配から解放しようとして、アジアの人々を植民地支配する、これほど大きな矛盾はないのですが、靖国神社は、日本の戦争はすべて自存自衛のものであり、アジア解放の目標をもった戦争であり、侵略戦争ではなかったと主張しています。
そこから、戦犯というのは存在せず、戦犯というのはぬれぎぬだったという考え方が出てきます。靖国神社が発行している資料を見ますと、「戦後、日本と戦った連合軍、アメリカ、イギリス、オランダ、中国などのかたちばかりの裁判によって一方的に戦争犯罪人というぬれぎぬをきせられ、無残にも命を絶たれた1068人の方々。靖国神社では、これらの方々を『昭和殉難者』とお呼びしていますが、すべて神様としておまつりされています」と書いてあります。
1,068人といいますのは、1978年に合祀された14名のA級戦犯だけでなくBC級戦犯すべて含めてだと思いますが、そもそも日本の戦争は間違っていなかったのに、戦争責任を取らされたこと自体がぬれぎぬなのだという評価です。
靖国神社の二つの役割りに基づく歴史観は、基本的に扶桑社版の歴史教科書を書いた人々がもっている歴史観となんら変わりがなく、そこに共通性があるということがいえると思います。
次に、靖国神社の中身です。これは、最近、比較的知られるようになってきていますが、私が一番問題だと思っている点を指摘してみたいと思います。
まず、靖国神社は戦没者を合祀しているといいますが、誰を祀っているのでしょうか。若い人などは「日本の戦争で死んだ日本人がみんな祀られているのだ」というように思っている人が多いのけですが、実は天皇の軍隊の軍人、軍属、準軍属と、民間人のうち、軍の命令で行動して死んだ人を祀っており、天皇の軍隊に敵対したものは、日本人であろうと外国人であろうと、祀っていません。
これは、靖国神社が国家の機関としてつくられ、そしてまた、政治的な存在であるということを示していると思います。つまり、誰を祀るかが、あくまで国家の判断であり、明治維新の功労者であっても、いったん明治政府に歯向かった西郷隆盛のような人は祀らないという、政治的な判断です。
同時に神道施設であり、その意味では宗教施設でありますので、その政治性が宗教性によって見えなくなってしまい、国家の命令で命がけで仕事をして死んだのだから、国家が最大限の名誉を与えて、特別にこれを祀るというのが当然のことではないかということに、「なるほど」と思ったとき、すでに、お国がどんな戦争をしたのかという問題が消されています。
それから、誰が祀っているのかという問題は、誰を祀っているのかということと裏表の関係です。靖国神社が宗教法人ということだけ考えますと、靖国神社が戦死者を選んで祀ってきたのではないかと思いがちですが、誰を祀るかについて決めてきたのは国家です。
靖国神社は250万人ぐらい合祀者がいますが、その90%以上は太平洋戦争の戦死者で、その大部分は戦後になってから合祀されています。その合祀はすべて厚生省(現厚生労働省)が遺族年金の支給とか、軍人恩給の支給とか、そういうもののために戦死者の認定をし、そこでつくる名簿を靖国神社に流して、それに基づいて靖国が合祀をするということでやってきています。
1968年、角田三郎さんというプロテスタントの牧師さんが、日本の歴史上はじめて、靖国神社に合祀されている自分の家族を合祀からはずしてほしいと申し出ましたが、「天皇の意志により戦没者の合祀は行なわれたのであり、遺族の意志にかかわりなく行なわれたのであるから抹消することはできない」ということで、靖国神社から拒絶されました。
靖国がやる合祀は、あくまでも国が決めたものを合祀することで、そこに、靖国神社側からいえばアイデンティティがある。日本の国が決めた戦死者を一人残らず合祀しているのであって、そういう意味で靖国神社は特別な存在なのです。だから、一人たりとも取り下げには応じられない。もし応じれば、次々にパンドラの箱を開けるみたいに、取り下げてくれというのが出てきて、収拾がつかなくなって、要するに靖国の面目が立たなくなってしまいます。
国が国のために死んだ者を称える。それを模範としてほかの国民にも、国のために自己を犠牲にするようにメッセージを出す、そういう施設だというところが、ここに出ていると思います。靖国への一方的合祀は、遺族の感情を無視した、強制合祀と言っても過言ではないと思います。
最後に、「政教分離原則の意味」ですが、きょうはここのところが皆さんにお伝えしたい点です。政教分離原則というのは、いま靖国問題についての中で、ほとんど触れられていません。
憲法20条の信教の自由で、宗教を信じる自由を述べていますが、その第3項で「国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならないと定められています。関連して、第89条で宗教的活動に対して公金を支出することを禁止しています。この二つを併せて普通は憲法の政教分離にあたるというわけです。
これは、私は戦後の日本の国というものの根本原則と思っています。
かつての大日本帝国では、憲法の第1条に、「万世一系の天皇がこれを統治する」と書いてあります。天皇が、この国をつくった天照大神の子孫であり、皇祖皇宗以来ずっと血のつながった統治権者なのです。万世一系というのは、すでに国家神道であり、神話と天皇制というものを結びつけてつくり上げた国家神道ですから、大日本帝国憲法における天皇主権は、国家神道という当時の国家の思想に基づいて根拠付けられていました。
しかし、戦後の日本国憲法第一条では、天皇は日本国および日本国統合の象徴になり、その地位は主権の存する国民の総意に基づくとなると、あくまで主権在民です。
天皇主権の国が国民主権の国に変わるためには、天皇主権を支えていた国家神道が解体されるべきとなりました。つまり、国家と神道が結びついて万世一系の天皇うんぬんということが否定され、国家と神道が切り離されて、神道は仏教やキリスト教と同じひとつの宗教になり、他方で国家は宗教から中立になった。どの宗教とも特別な癒着関係をもたない。こういうふうにしなければ、信教の自由も保障されないし、そもそも国民主権の国家にならなかった。これが、政教分離原則が導入された経緯です。
そういうことを考えますと、政教分離原則は、単に憲法20条の信教の自由というのではなくて、日本において民主主義を成り立たせている原則となっているわけです。
遺族感情を無視して、一方的に合祀して、国が戦死者を囲い込んでしまうということを続けている限り、靖国神社は批判を免れないと思います。私は靖国神社自身がこういう人たちについては合祀を取り下げ、他方、合祀を求める遺族の要求に応えて、戦死者を慰霊、顕彰する。この慰霊、顕彰すること自体は宗教法人の自由ですから、そういうふうにすることによって、靖国神社自身が名実共に宗教法人になって、国家と関係を断ち切り、政教分離を徹底させることによって、自らの信教の自由を確保するようにしていかない限り、問題は解決しないと思っています。
このように、重要な意味をもつ政教分離ですが、いまこれが自民党の憲法改正の標的になっています。現行の憲法では、20条3項で非常にすっきりと国とその機関が、いかなる宗教的活動もしてはならないといっていますが、これに対して、この4月には、政教分離原則は維持すべきだが、「社会的儀礼」や「習俗的・文化的行事」の範囲内であれば、国や地方自治が宗教的活動に関わっても、政教分離原則に違反するとはみなさないようにしようという案を出してきたわけです。
政教分離原則を維持しつつと言いながら、習俗的行事や社会的儀礼を例外にしようとしていますが、ここで例外にされることは全部靖国とか護国とか神道関係のものなのです。実は、それを国家や公権力から切り離そうとしてきた政教分離原則の例外に、神道関係のものをごそっと持ち込み、政教分離原則が解体しなければならなかった当のものを復活させることになります。つまりこれは、政教分離原則を維持するのではなくて、逆に原則そのものを解体するということになると私は考えています。
このようにして、靖国神社、護国神社への首相の参拝や、自衛官の幹部の参拝などが、全部合憲化されていったら、将来憲法9条が改正されて、自衛隊が海外へもっと本格的に派兵されていき、そして武力行使も行なうというようなことになったときに、それを支える役割というものを、もう一度、靖国神社や護国神社が持ちかねないというように思われるのであります。
(文責・編集部)
高橋哲哉(たかはし てつや)教授のプロフィール
1956年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻は哲学。
著書に
「靖国問題」 ちくま新書 756円
「教育と国家」 講談社現代新書 756円
「戦争責任論」 講談社学術文庫 1008円
「『心』と戦争」
「とめよう!戦争への教育 教育基本法『改正』
と教科書問題」(一部執筆)
「反・哲学入門」他