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第31回定例研究会

市民発想の憲法理論をつくるために

松下圭一 法政大学名誉教授 

 1.戦後の憲法学と憲法課題との分裂

 日本の憲法学は、戦後50年、たしかに基本人権とか平和では、一国閉鎖型ではあれ、一応の役割を果たしました。ところが、国レベルの国会、内閣、司法、また地方自治ではほとんど間違った考え方をしている。とくに、地方自治を理解する憲法学者はほとんどいない。これが実態です。現在の日本国憲法は、アメリカ占領軍による起草にもかかわらず、日本の当時の帝国議会の審議もあって、普遍原理性を持ちます。私達はこの《普遍憲法原理》に即した考え方を、日本の憲法学と対立して構築すべきというのが、私の考え方です。

国レベルの政府を“constitute”する《憲法》にふさわしい考え方が、2000年代の今日の日本でもまだできていない。護憲派と改憲派の対立は1960年前後をピークに厳しくなりましたが、結局、どちらも明治憲法の国家統治という考え方をしていた。つまり、改憲派、護憲派のいずれも、同型の「国家統治」という考え方で日本国憲法をとらえ、≪市民自治≫という考え方はいずれでも未熟でした。(拙著『戦後政党の発想と文脈』2004年、東大出版会)。

 この問題を、私はすでに1975年の『市民自治の憲法理論』(岩波新書)で提起しています。なぜ《市民自治》と言ったのかといいますと、改憲派も護憲派も憲法は「国家統治」の基本法とみなしていたからです。これでは、明治憲法の考え方そのものです。国民主権から出発するならば、《市民自治の基本法》でなければならない。「国家統治の基本法」では、いわば憲法違反の憲法学となります。

 2.理論軸の設定と憲法動態

憲法の前文に国政は国民の《信託》によるとあります。だが、摩訶不思議なことに、この信託の解説はどの憲法学教科書にも書いてありません。小、中、高までは信託と教えているとしても、大学法学部の憲法学では、政府信託を教えません。国民主権を空洞化して、国の政府は国家統治を行なうという戦前国家の考え方にとどまっている。国の政府については、「統治機構」と今日も教科書の目次にかかげているのです。

 私の《市民自治》という考え方は、これをくつがえしたわけです。私たち主権者は、まず、主権を最初に市町村に信託する。政府はまず市町村からの出発です。市町村でできない仕事は、県が補完する。県ができないことは国に、国ができないことは国際機構が補完するわけです。これを《補完》説といいます。市町村や県は、国からの《派生》ではありません。今日では、この《補完》説はEUや国連での自治体理論でも当たり前の考え方です。信託の手続というのは、具体的には市町村、県、国という各政府レベルでの選挙と納税です。私のこの考え方は1975年に『市民自治の憲法理論』で初めて提起しましたが、この考え方が今日では国際通説となっています。日本でもその帰結が、地方自治法の大改正による2000年の「分権改革」でした。つまり、機関委任事務方式の廃止です。

機関委任事務方式というのは、国は絶対・無謬で万能の権限・財源を持つとみなされ、国が県や市町村に下令するという考え方で成り立っていたのです。国家つまり内閣・官僚機構の意思を県知事、それから市町村長が国家機関として忠実に担う。つまり、知事や市町村長は市民代表というよりも、国家機関にすぎなかった。2000年の大改革による機関委任事務方式の廃止の結果、県あるいは市町村は自由に国の法律についても解釈し、あるいは自治立法としての条例をつくることができることになりました。ようやく市町村、県、国が対等に「政府」になって、お互いの対立は裁判で決着をつけることになります。もちろん、われわれ市民は自由に自治体条例、国法を解釈し、一定の手続でこれらを立法・運用すればよいです。

憲法学の教科書を本屋で見てください。第8章地方自治には、2000年分権改革の意義と課題についてもほとんど書いておりません。結局、憲法学者は地方自治がわかっていない。明治型の国家観念・官僚機構への崇拝が、今日もまだ続いている。また、そういう国家統治型の考え方をしなければ、司法試験や行政職試験に合格しない。2000年代の今日も、司法試験、行政職試験などで国家統治型の思考をしない限り、悲しくも裁判官、弁護士、あるいは官僚になれないわけです。まだ、日本の政治・行政は中進国型なのです。

 3.歴史軸の展望と改憲問題

現在、国会議員は憲法論議をやっています。市民自治型の考え方で憲法論議をするならいいですが、国家統治型の考え方で憲法論議を各党ともに、旧革新系をふくめてやっている。まだ明治国家的な考え方をしている。官僚、裁判官、大学の先生もほとんどがそうです。ジャーナリストもです。だから今の憲法論議自体が、おおいなる時代錯誤だと私は見るわけです。前述したように国家統治型から市民自治型に憲法理論そのものをつくり直さない限り、憲法論議をやっても意味がない。1960年前後の改憲・護憲に論点が逆流するだけなのです。注意していただきたいのは、9条問題などのいろいろな憲法争点がありますが、「憲法争点」と「憲法条文」との間に、「憲法理論」を置いて、この憲法理論を明治国家の国家統治型の憲法理論から、政府信託を骨格とする市民自治型の憲法理論につくり変えない限り、場当たりの井戸端会議のような議論水準にとどまることです。

 憲法第3章は「国民の権利及び義務」です。基本人権は、国籍いかんを問わず、人間個々人の権利でしょう。それなのに、この「国民の」となっている権利の普遍性について、これまで憲法学者は論理矛盾を深く追及しなかった。戦後の外国人差別もここからきています。だから、憲法理論を再構築しない限り、日本国憲法は憲法として十分機能し得ないということを、ぜひともお考えいただきたい。憲法理論を市民自治型につくり変えれば、憲法条文は全体として今の日本国憲法で十分間に合います。敗戦時、日本政府がつくった憲法改正案は時代錯誤のためボツとなり、アメリカ占領軍は改正案作りに追い込まれましたが、日本でも広く策定論議をし、前述のように普遍市民政治原理といいますか、国際的に共通な考え方で出来上がっていくからです。いわゆる改憲派は、日本の「特殊性」つまり明治国家型発想の欠如を強調しますが、都市型社会の今日、憲法原理は普遍性を持つことをぜひ理解していただきたいと思います。その上、いわゆる「解釈改憲」についても、自民党だけがやったと考えるのは間違いです。私もひろく解釈改憲をやっています。

まず第一に、国民の最低限の生活を保障する憲法25条です。1960年代までは、この25条は宣言条項であって、実効ある権利保障ではないといわれていた。だが、いわゆる都市型社会においては、シビルミニマムとして、構造必然的に権利になると、私が理論化しました。その後、25条はごく当たり前の市民の権利になります。それから、憲法第8章地方自治をめぐる自治体理論も、私が創出します。私の考え方は今日では、前述のようにEU「地方自治憲章」や国連系「地方自治憲章案」での国際通説の予測となっています。

 さらに65条に「行政権は内閣に属する」という短いが重要な条文があります。私は、県も市町村も独自の行政権をもつ政府であるという立論を『市民自治の憲法理論』以来行いました。この視点から菅直人さんが橋本内閣に対して国会で問題提起を行い、内閣法制局長官の「行政権は内閣に属する」の行政の範囲は、第8章にある県や市町村の行政権を「除く」というかたちで、国の明治以来の解釈を転換させたわけです。これが、2000年の分権改革つまり日本の憲法構造の改革につながりました。

 もう一点、重要な論点があります。41条には「国会は国権の最高機関」とあります。明治以来、憲法学は、内閣を中心に国会、裁判所の三権分立によって国家主権を担うという考え方をとっています。だが、私はこの「三権分立」は間違いだと言うわけです。

 日本国憲法では、政府信託に基づいて国民が国会を選んで、この国会が内閣を創出するという「国会内閣制」をとっています。ところが、日本の憲法学は、19世紀では後進国官僚国家だった旧ドイツのいわゆる「三権分立論」の系譜にあり、今日も実質は官僚を中核におく内閣中心に立論し、国会が「最高機関」とは空文の「政治的美称」といっています。これでは、今日も私のいう「官僚内閣制」です。このため、国会の政治家たちは各党ともに官僚依存で、自分たちで法律をつくろうとか、内閣ないし省庁を制御しようという自覚に未熟です。こういう問題を議論せずに、マスコミを含めて、憲法争点を1960年前後の改憲・護憲論議への逆行、ついで矮小化しているのはおかしいというのが、私の考え方です。

たしかに9条の自衛隊問題は、自民党が解釈改憲でおしすすめました。しかし、以上のように私たち日本の市民もこの半世紀、日本国憲法を運用しながら解釈改憲をやっているのです。この論点を、先駆的な市民活動家ないし心ある政治家が、どのように今日時代錯誤の憲法論議に結び付けていくのかという問題となります。9条問題を除けば、「条文」をめぐる改憲論は、理論としてはともかく、ほとんど実質政治課題になっていません。日本国憲法は時代を先取りして普遍市民政治原理によって構築されているからです。現在の憲法論議は、基本から組み立て直さなければならないのではないか(拙著『市民立法への改憲論議』2004年、生活社)。

 9条問題を考えると、問題ははっきりします。9条1項は不戦条約の条項そのものですから、自民党も変えると言っていません。問題は2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」です。外国が攻めてきたらどうするんだという論点です。だが、都市型社会ですから、日本を占領したら1億2000万人を食わせなくてはいけない。日本もEUと同じく都市型社会ですからもう戦争はできない(拙著『都市型社会と防衛論争』2002年、公人の友社)。

もしこの9条2項を修正するならば、条文を修正する「修憲」となる。また足りない条文を追加するなら「加憲」にとどまります。「改憲」とは大げさではありませんか。日本国憲法を全面改正するというような発想こそが、憲法全能主義だから問題なのです。

 今の日本国憲法では、むしろ〈憲法関連法〉の整備こそが重要ではないか。2000年分権改革をめぐる『地方自治法』大改正はまさにこれだったのです。憲法関連法としての情報公開法やオンブズマン法、会計監査法、あるいは国会法や内閣法、裁判所法などなどの整備という考え方が必要です。結局、今の改憲派、護憲派は、この憲法運用に不可欠な憲法関連法の整備つまり《整憲》を理解していない。その上、日本の国会議員は、この憲法関連法の立法能力どころかまた改革発想ももっていない。言い直せば、国会が国権の「最高機関」になり得ていないことこそが中枢問題なのです。それゆえ、憲法をめぐる思考ないし理論を変えることが緊急となります。憲法さえ変えれば世の中がうまく動くというのは、むしろ後進国の憲法崇拝です。憲法の祖国のイギリスをごらんください。そこでは憲法条文がありません。憲法関連法の積み上げです。アメリカは加憲で憲法本文は変えずに整憲する。成熟した憲法政治では、私のいう《整憲》こそが中核課題です。

 日本の今日の憲法は、普遍的な人類の共通財産である市民参加、法の支配、個人自由、生活保障、さらに地方自治、機構分立を統合して組み込んで原理性を充足させている。だから、憲法改正というよりは、「修権」・「加憲」、とくに憲法関連法の「整備」をめぐる討議・熟慮こそが、日本の市民の政治成熟にとって不可欠です。

 4.法務軸への新思考

 今日の都市型社会では、市民活動は国境を越えて国際的に広がります。団体、企業も国際的につながっている。自治体も『世界地方自治憲章』をつくって地球規模で横につながろうとしています。また、国連など数十の国際機構も世界政策基準(国際法)をつくる。このように世界共通の論理でわれわれは思考していきます。私たち日本人も、明治型の閉鎖国家観念からの脱却が求められます。 

 今日では、政府のレベルとしては自治体、国、国際機構、経済としても地域経済、国民経済、世界経済、それから法律では条例、法律、普遍条約、そして文化についても地域個性文化、国民文化、世界共通文化という、三極緊張で考える思考法が必要になっています。従来のように日本を国レベルのみで、官治の集権型の閉鎖国家としてとらえ、憲法を論議するのは誤りです。

今後、政府を自分たち市民がつくるという経験を蓄積するにはどうしたらいいかが、自治体の自治体基本条例、国の憲法、国際機構の国連憲章という《基本法》問題です。この基本法については抽象的な議論ではなく、市民がその法務経験を積む必要があります。特に今日の日本では、自治体基本条例というかたちで、基本法をつくる思考訓練を成熟させ、基本法運用に熟達していく。それを、日本国憲法、あるいは国連憲章の運用にも活かすことが急務です。それゆえ、国の基本法としての憲法の運用を、政治家や憲法学者に任せてはいけない。私たち市民が、その運用の法務経験を市町村レベルからもつためには、自治体基本条例の策定・運用の経験が原型の革命的な意味をもちます。これには、最近の札幌市自治基本条例についての「構想私案」として、神原勝さんの提案が画期的です。

日本の市民も基本法を自治体レベルでつくるようになってきました。こういう日常経験を活かしながら、日本国憲法の運用についても、日本の私たち自身がノウハウを蓄積して、市民からする「法務」に「習熟」することが急務だということを、私はあらためて強調したいと思います。


松下圭一(まつしたけいいち)

1929年、福井県生まれ。元日本政治学会理事長、元日本政治学会理事長、元日本公共政策学会会長。
著書「市民自治の憲法理論」「政治・行政の考え方」(岩波新書)、「政策型思考と政治」(東大出版会)、「市民立憲への憲法思考」(生活者)など