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第17回月例研究会

日本にはなぜ大都市政策がなかったか

船橋成幸さん(旧社会党中央執行委員、飛鳥田市政時の横浜市参与)

2002年11月2日 17:00〜19:00 

神奈川ネットワーク運動大会議室(横浜市中区)


基調報告から ―日本の大都市政策―

 政策一般を論ずる場合の基礎にニーズがあるわけですが、一体それが誰のニーズなのか、市民のためのニーズなのかということが問題です。

 もう一歩掘り下げてみますと、市民のニーズとは何だろうか。私の横浜市役所での経験ですが、市民のニーズというのは多様で、矛盾し対立するニーズもあります。よく飛鳥田さんが言っていましたが、例えば学校建設のニーズがあると、「ここで学校をつくられると、この静かな住宅地に騒音公害が起きる」。これもやはりニーズです。そのニーズの一番元になっている原点は、多くの場合エゴだといっていいと思います。

 だからといって一概に否定するのではなく、どうやってそのエゴから出発した市民のニーズが、多数の合意に基づく政策ニーズに高まっていくのか、その回路はどうなのかを問わなければならないと思います。その機会・方法として、対話とか参加とか、住民同士の触れ合いが重要だと思います。

1.国の大都市政策(全国総合開発計画を中心に)

●全総(1962年10月、池田内閣、目標年次は1970年)

池田内閣のとき、高度経済成長期初期の62年10月に、「全国総合開発計画」が出されました。大都市は先行して拡大し、地方は過疎化が進み、遅れてくる。都市と地方の格差が非常に問題になってきた。

そこで、「国土の均衡ある発展」をスローガンにした「全国総合計画」という開発戦略ができました。そのときに、地方の特定地域を指定して、そこに政策資源を集中する「拠点開発方式」がとられたわけです。

全総の前提は「新産都市建設促進法」でしたが、公害とか環境破壊が非常に問題になりました。同じ62年には「ばい煙排出規制法」をつくらざるをえなくなりました。工場からの煙の規制という市民の声が具体的な果実を結んだわけです。また、68年池田内閣の末期には、「大気汚染防止法」「騒音規制法」といった法律もつくられました。

●新全総(1969年5月、第2次佐藤内閣、目標年次は1985年)

1969年の「新全総」は、「自然との調和」「環境条件を考慮しつつ、開発可能性を全国土に拡大する」という基本目標を立てました。拠点と拠点、そして大都市をつなぐネットワークとして、交通網を整備していく。四国に橋を架けるような大規模プロジェクトをやっていくという考え方でして、これの最たる展開が、田中内閣の列島改造論です。当時は、財政面に心配はないとして、こういう土建政策を推しすすめたわけです。

都市基盤の整備ということで思い出すのは、飛鳥田市政の初期に、1年間に10万人ずつ横浜の人口は増えていました。小中学校だけで、年間一番多いときは50校つくりました。とにかくプレハブでも何でも、50校つくらないと子どもを収容できない。都市自体が大変な状況にさらされていたことを申し上げておきたいと思います。

●三全総(1977年8月、福田内閣、目標年次は1987年頃=おおむね10年計画で新全総と重なる)

高度経済成長というのは、だいたい1974年に終わりました。80年代前半にいたる長期不況という状態が押し寄せ、財政的にも次第に窮迫してきました。大規模プロジェクトという方式は、まず金の面からも無理じゃないか、それに、謳いあげたような効果が上がっているのかという疑問も出てきました。

そういう批判の先頭に立ったのが、各地域の市民です。地域の均衡ある発展、あるいは拠点開発のために地域独自の政策として何ができたかというと、だいたい無駄が多かった。典型的なのが、四国に橋を何本も架けるといったもので、こういう開発計画を少し反省しなくてはいけないというのが三全総の考え方でした。

そのために自然との調和とか環境条件を考慮するといったのですが、現実に生かされたのは開発可能性を全国土に拡大するという、従来型の開発方式に公共財や民間資源を集中させるということでした。

●四全総(1987年6月、中曽根内閣、目標年次はおおむね2000年)

四全総になると、第三次産業が急速に伸びて、二次産業を追い越すという状況が生れてきた。それに伴って、産業の管理中枢機能が、みんな東京へ集中していった。人口も企業や産業の管理機能も、全部東京へと一極集中し、それに伴う新たな矛盾が出てきました。

77年に第二次オイルショックがあり、技術革新が進み、産業合理化がどんどんすすめられるという中で失業者が増える。雇用問題の解決手段として、国土庁のお役人が考えたのが、「多極分散型国土の構築」という開発計画です。居住環境の整備、地域格差の是正を唱え、開発方式は交流ネットワーク構想を掲げました。この内実は、要するに地方拠点をいっぱいつくって、その拠点都市と拠点都市を結ぶための交通、情報、通信体系を整備していくということです。あくまでもフィジカルな物理的なビジョンにすぎず、人間生活の問題から発想されたものではありませんでした。

●五全総(1998年3月末、橋本内閣、目標年次は2010〜15年を計画期間とする)

五全総では、量より質、所得よりゆとり、自由な選択と自己責任、自然への再認識、男女平等への変換といった、国民意識の転換を掲げたのが特徴的でした。

もう一つは、グローバリゼーション、地球時代というものが、経済社会の新たな背景として意識され、人口減少・高齢化時代の到来、また高度情報化時代が進んでIT革命などといわれるようになってきました。

五全総のこのような時代状況に対応した社会を創造するために、多軸型国土構造形成の基礎づくりをめざすといわれました。

これは、中央の官僚が日本列島に四つか五つに線を引いて分割し、それぞれ自立した社会経済圏をつくるというものです。しかし「市民のニーズに基づいて」などの発想や手法はまったく考慮されていなかった。こんな計画が、都市政策、国土政策といえるわけがありません。

しかも、この橋本内閣の時期から、国の財政の窮迫が深刻になりました。そこで、「参加と連携」という言葉が、開発方式に代わるキーワードとして五全総の中に謳われているわけです。この連携とは何かというと、要するに地方は地方でお互い連絡しあって勝手にやりなさい、国はもうやれなくなったから、地方や民間企業に委ねる、お任せしますというのです。それでいて基本目標は、あくまでも中央官僚が書いた方向にすすんでください、一言でいえば、無責任なビジョンの押しつけになってきたと思います。

そのことが今の小泉内閣にも、ずっとつながってきています。なぜなら、数日前に発表された「地方分権改革推進会議」の最終報告を読んでみますと、例えば地域目標として、「ナショナルミニマムの仕組みを廃止する」。これは、中央官僚がここにはこの程度の文化施設・教育施設なりをつくるという、政策目標を一方的に押しつけることを止めるといっています。

社会保障については「幼保一元化」を掲げると同時に「地域競争を視野に入れた国の関与の見直し」、公共事業については「国庫補助負担事業を廃止し縮減する」。そのため汚水処理施設など、「全国的見地で必要なもの以外は縮減、市町村や県に委ねる。道路、港湾などへの補助金は、公益性など施設の性格に応じた重点化を図る。既存の社会資本の維持管理は地方に委ねる」。

これは、国道であっても、国の施設であっても、地方でやってくれということを意味しています。もう金がなくなったから、地方の金でやってくれと。その財源をどうするんだ。地方に税源を委譲するのかということについては「検討中」ということになっています。これについては、最終報告でありながら、何ら明確にしていないのです。

例えばドイツのように、税金というのは一旦全額を地方自治体に納め、自治体は、その中から必要経費をまかなったうえで、一定の割合で中央政府に上納する。これが本来の分権のあり方です。

2.「国土の均衡ある発展」「地域格差の是正」を妨げたもの

「国土の均衡ある発展」「地域格差の是正」ということは、それ自体としてはいいことのようにみえます。それを一貫して唱えながら、都市と地方の矛盾がひどくなったのは明らかに、自民党政治の責任です。

いわゆる利権政治。選挙制度が特に今の小選挙区制度になってから、地域の有力者が熱心に言ってくることに迎合していれば、当選条件が濃くなる。地域住民は、むしろ社会保障の充実とか保育所をつくってくれとか、そっちの方のニーズが圧倒的に強いのに、社会保障制度を充実させたところで、大企業は別に儲けにならない。しかし、箱ものや産業基盤を整備する施設をつくれば関連業者が儲かるわけです。そこには、市民不在、住民不在の政治構造があったといえます。

3.小泉構造改革と大都市問題

小泉内閣の構造改革は、一言でいえば市民不在の極端な経済合理主義です。2年や3年は痛みに耐えてもらいたいといっていますが、それなら5年先、10年先、自分の子どもたちが成長した暁に、どんな人生の環境を迎えるんだろうかという近未来が、さっぱり見えない。

構造改革のためには、政治構造や行政の構造、これらの根底的な改革の決意が問われますが、抵抗勢力に押しまくられている小泉内閣にそれを期待はできません。

そして地方と民間に委ねるというが、これはつまり民間大企業などのニーズに対応していくということであり、行政としての責任放棄を意味します。市民のニーズから出発する、市民のニーズに応えていくという姿勢は、依然としてここでも見えないわけです。

小泉さんの言っている改革というのは、今までやってきたことに矛盾が蓄積してしまったから、何とかつじつま合わせをやろうという後ろ向きの改革にすぎません。先ほどの5年先、10年先の生活はどうなるのかという目標もビジョンも何もないのです。

4.飛鳥田市政が残したもの

飛鳥田市政ができたときは、まだ高度成長期の只中でありますが、人口の流入が激しくて、初期のうちは都市基盤整備に十分な余裕はなかったわけです。学校を1年間に50校もつくらなくてはいけないわけですから。

例えばいま、伊勢佐木町と関内駅間の高速道路が半地下式になっている。これは飛鳥田さんが「完全地下式にしろ」と言った。建設省は当時高架の計画だったので、「とんでもない」というのを粘りに粘って、結局中をとって半地下になったと。

それからあまり金を使わないでできること、これは「ちびっこ広場」などがありますが、市民のニーズに沿ってとにかく現状について徹底的に話し合おう。市民の力を引き出そうということで、「1万人市民集会」とか「区民会議」とか、市民生活モニターをつくるとか、あるいは区役所に市民相談室をつくった。それから、野毛動物園の無料化だとかを一所懸命やりました。

落ち着いてからは横浜市全体の構造を考えなくてはいけないということで、いわゆる六大事業の構想を立てました。79年に、横浜の都市の骨格を考え、桜木町駅裏の大きな三菱造船所を本牧と金沢地区に移転を促しました。今の「みなとみらい」と飛鳥田さんが考えていたのとちょっと違うのは、あそこは緑地帯と市民住宅と商店街にしたいと言っていたことを覚えています。そして流入人口の新たな入れ物として港北ニュータウンを開発する。地下鉄をつくって、市民の足の便を確保する。

ベイブリッジもそうです。あれは、横浜港に上がったコンテナが、横浜の街のど真ん中を走る。これを緩和するためには、バイパスとしてのベイブリッジを考える必要があるだろう、というのが考え方の基本だったわけです。

飛鳥田さんは、あくまでも市民参加、あるいは対話、直接的コミュニケーションを徹底しました。飛鳥田さんが最初に当選したとき(1963年)は、「私は市民の皆さんに集まっていただいて意見を聞きます。それを徹底します」と1万人市民集会のことだけを訴えて選挙に当選しました。「横浜総合計画」という政策をつくったときも、ただちに市内14区の区民会議を開いて、そこで説明しました。関心のある市民は誰でも参加できる、そういう会議を開いて、そこで徹底的に議論してもらう。そういうかたちで、市民の中でつくり上げていくという政策立案の仕方をしたと思います。

5.大都市再生のために

本当の大都市政策、大都市を再生させる原点とは何か。市民自身のニーズ、そこに本当に基づいているのかが尺度になると思います。ニーズという言葉自体を誰が使うのか。誰が解釈し、誰が運用するのかという関係性が問われると思います。その視点に立てば、全総から五全総にいたる都市政策の全過程というものは、批判の対象にならざるを得ないと思うし、私たちの立場や都市の個性は見捨てられているのではないか。

そして、「連携」という言葉が使われていますが、地方と大都市の市民同士の連帯、横浜市民同士の連帯と同時に、私たちと田園都市の住民との間の連帯が重要です。そういうテーマを持つ市民としての立場はまた、世界共通のニーズに基づいているといえるでしょう。

最後に「地球市民」の立場という視点で一言。中国はいま自動車の生産がどんどん拡大しています。日本並みに自動車が普及したらどうなるか。日本列島の山は、酸性雨で全部はげてしまいますね。それでは中国へ行って、「あんたら、自動車つくるのをやめてくれ」と言えるでしょうか。言えませんね。これはやはり国と国との間で、戦略的に地球環境を守る、アジアの経済環境を守るという観点から何をなすべきか、問われています。

日本の持てる力を、中国を含めたアジアの国土をどうするか、そういう視点から大いに活用する余地というのはあるのではないでしょうか。中国あるいは朝鮮半島、ベトナム、マレーシア、インドネシア、そういう地域の人々とわれわれは協力し合っていける無数の課題があります。

本当の生活ニーズをかぎ分けて選別して、そのために貢献できる政治能力というのは、市民の中にあると私は思います。まずそういう市民自身の知恵と力とその参加責任を集中していく、そういう実践の回路をつくる必要があると思います。 (ふなはししげゆき)