TOP > 月例研究会

第6回 月例研究会

参加と制御

須田春海(市民運動全国センター代表)


■参加とは何か

 僕自身は、1960年の安保世代であります。1960年以降に生まれた方の方が多いかもわかりません。私たちは、ちょうど1960年に国会の周りで毎日毎日デモをした経験を持っています。なぜこの話を最初にするかというと、「参加」といった場合、僕は学生の頃には「参加=デモ」でありました。今はデモをやる人はほとんどいません。「参加はデモだ」というのは、どういうことか。

日本では国民が国政に対して意見を言う法律上認められているチャンスというのは、請願法に基づく請願しかなかったということです。請願は市民が参加をする、要するに、議会に意見を言う、あるいは長に意見を言う一つの権利として認められているものです。

 どうも、参加というのは、あるチャンネルがしっかりしていないと、ぶつかり合いで力と力の関係になってしまう一つの象徴なわけです。それは、実をいうと60年安保のときもまったく同じであります。60年安保もそういう経験があり、請願権しかなくてあと何もできない。だから、どんどん、どんどん若い人は、街頭で過激化していく。そのときに、私たちが考えた一つの解決策というのは、もう一度、地域から民主主義をしっかりつくり直していくことが重要なんだ。要するに、国の権力をいきなりつくり直す、いわゆる革命ではなくて、地域における制度をもう一回つくり直していくことが一番重要なんだと。そこから、地域民主主義の運動であるとか、自治体改革の運動であるとか、そういうものが生まれてきたわけです。それが今でもずっと続いている運動だと私は思っております。

 「参加とは何か」。これは運動制度、運動の無窮動であるとありますが、運動制度、運動の無窮動というのは、丸山眞男の言葉です。運動が制度をつくり、制度がさらに運動をつくる。こういう関係が必ず出てくる。この運動の過程そのものが参加です。間違いなく、運動することが参加です。運動することによって制度をつくる。制度はできあがった瞬間に制度を維持しようとするエネルギーの方が強くなってくる。どんな制度でも、欠陥品です。すべてを満足させる制度というのはあり得ません。例えば目的が100だとしたら、そのうち50とか70達成していればいい制度でしょう。必ず結果が思っているものと違ってきます。ですから、運動の上に目標を掲げて制度をつくりますが、制度をつくった瞬間に、制度には欠陥が生まれるわけです。その欠陥を直そうとして、また運動が起こってくることになります。

 同時に、制度ができると、再生が出てきます。その制度を維持する人たちが出てくる。その人たちが、今度はその制度を守ろうとするためにどういうことをするかというと、運動型参加ではなくて、市民を包摂する、何とか市民を自分たちの味方につけようというかたちでの、包摂型の参加を必ずするわけです。ですから、参加というのは、どんな場合でも、私たち市民の側からする運動型の参加と、制度を守ろうとする方の包摂型の参加の拮抗関係の中にある。要するに綱引きで、いつでもそういう状態が起こっているわけです。これをしっかり考えておかなければいけない。この問題が、参加を考える場合の、一つの結節点になると思います。

■主権のあり方をめぐって

 その次に、「参加」ということを、なぜ私たちはごちゃごちゃ言わなければならないのか、ということが問題です。主権が市民にあるならば、なぜ参加などという言葉を使わなければいけないのか。主権は市民にあるわけですから、自分たちが統治をすればいいだけの話でして、改めて何かに参加をしていくという意識をなぜ持たなければいけないのか。

 これは非常に難しいテーマでありますが、実をいうと、今まで市民社会の構成員すべてが参加をした時代というのはまだない。世界のあらゆる階層が、対等なかたちで社会をつくって参加していくような状態に、なかなかなれていない。しかし、そういう状態をつくっていかないと、社会は健全になれません。だから、いま国連は「完全参加」を盛んに言います。まず世界は対等平等な構成員でできているということを認め合うことをやらなくてはいけない。そのために、参加ということが盛んに強調される場合があるわけです。

 とりあえず、その二つのことを考えていきたいと思います。一つは参加というのは運動の方で、どんどん参加をしていって、いまある体制を変えていくという動態的なダイナミックな参加の議論が一つある。もう一つは、社会の構成員の中で、社会に参加できていない人たちを、しっかり自分たちの仲間として認めていくための、完全参加の議論があるという、その二つが前提です。その上で、参加の議論は、市民団体を制御する議論になっていくと思います。

■制御の具体的手段

 僕は、参加というより制御という言葉の方が好きですが、団体を制御する、要するに市民が自分でつくっている団体を自分で制御する、それが統治の目的です。市民団体を市民が制御する。その場合の団体とは何か。僕らは少なくともこの団体を三つに分けて考えようと思っています。公的な団体、生産にかかる団体、それから市民団体、この三つのセクターにある、あらゆる団体が市民団体であるというように考えてください。ですから共同組合も、自治体も、国も同じように私たちがつくっている団体だというように考えましょう。自分たちがつくっているとしたら、それはどうやって制御するかということが、その次に課題になってくるわけです。そのために市民には、どういう権限が必要かという話になってくるわけです。

 明らかに市民セクターというのは共感のセクターで、あることを言ったことがパッとつながるということによって生まれている。産業セクターというのは、ある意味で「富」、豊かさのセクターで、財が中心です。政府セクターは、いろいろいっても公正さを実現するセクターです。それをどうやって市民は制御するのか。「信任−解任」の原則で制御する。企業セクターを、市民はどうやって制御するのかというと、「購入−不買」です。それから市民セクターはどういうかたちで制御するのかというと、神奈川NETがいろいろいっても入らない、あるいは脱退するということで、市民は市民団体を制御するわけです。これはごく典型的な制御の概念だけを書いていますが、そういうかたちで、各団体を全部市民が自分の力で制御していく。それが、参加のシステムの一番大きなポイントになってくると思います。

 皆さんは自治体に関わっている人だと思いますが、自治体が失敗をしたときに、全部、必ず上級の行政庁が監督をして何かやっていくというのが流れです。これは市民の制御とまったく正反対の流れです。その仕組みの方が、日本では行政の運営実体の中では、まだはるかに強い。そのために、自治体を市民が責任をもって解決しようとしても、手段がまったくない。これをようやくこれからつくる時期に入ってきているわけです。中央政治は、1970年代から80年代、あるいは60年代、70年代の自治体政治の失敗や成功を学んで今はやっているところがあるということを言いたかったわけです。私達は対話をしました。対話から次は参加の時代にいこう。これはどういうことかというと、ある政治があって、そこは超然主義の国家の中の一員でありますが、国家の中の一員だとしても、有権者をまったくほっといてはいけないので一応対話をした。有権者の人たちの意見も聞いて、参加も始まった。だけど、その団体をつくっているのは、ひょっとするとお客様で参加したのではなく、お客様だと思った人の方が中心なんだということに気がついた。気がついたけれど、その人たちがつくる団体として、どうやってつくったらいいのかということになって、ここでパツンと止まってしまった。

 超然主義で与えられた団体である自治体を、市民の団体に変えていくための手段が、私たち市民にはほとんどない。でも日本には直接請求があるじゃないか、という意見が出るかもしれない。直接請求をやっていますか。直接請求という、惨めな制度しか日本にはないというのが非常に悲しい話です。昭和21年に、憲法の前、地方自治法の改正の段階で直接請求の制度が入ってきます。10分の1とか50分の1の請求の署名があれば、それによって代表者を解職しよう、あるいは、条例の制定権を認めよう。ところが、直接請求したものが成立したら、誰がその次に判断するのか。直接請求が成立して、代表者と意見が食い違ったら、住民投票にするのが直接立法です。代表者が言うことをきかないから請求をするわけです。この人たちは何を考えたのか。それは、まだ住民は判断できないから、内務省が判断しましょう。要するに、日本で明らかに地方自治制度が変わって、投票で生まれてくることになる。先を読んで、そういう民主的な改革が進むのなら、それをもっとコントロールするために、この制度を変えて、市民から発案があったら、それを受け止めて、その結果、例えば都道府県の場合は内務省、市町村の場合は都道府県がそれを裁量的に認めてあげようという制度として発足したわけです。だから、直接立法は人民主権の発想で生まれたのですが、直接請求は超然主義の思想で生まれた。最初にできた案というのは、リコールにしても何にしても、全部上級職がそれを判断する案でありました。

 国会でも問題になりました。GHQも、それは問題にしました。その結果、リコールについては、直接投票する制度に変わりました。これはギリギリの段階で変わったわけです。ですから、いま3分の1の直接請求をして、あの市長を辞めさせようと思って、それが成立したら、無条件に選挙に入ります。これはそのときの成果で選挙に入ったわけです。そのときに、イニシアティブ・レファレンダム、特にイニシアティブについての議論は、まったくなされていません。気がつかないままに通ってしまったと僕は思っています。ですから、上級職が判断するという構造を、他のものは変えたにもかかわらず、イニシアティブに関してだけは何も討議をしないまま、内務省のままいってしまった。だから、今のような愚かなことが何度も何度も起こるわけです。もし、市民が市民団体としての自治体を制御するのであれば、直接立法型になっていかなければおかしいじゃないかということは、皆さんおわかりいただけると思います。そういうことに類することが、日本の中にはたくさんあります。ですから、自治体や自治会と言いながら、自分で自分の税金を決められない。それで自治体と言えますか。言えるわけないです。

 もっとひどいのは、自治体が破産したら、なんで起債の制限を上から受けて、ここからここまで、こうしなければいけないという債権団体にならなければいけないんですか。これもおかしいです。まして、自治体につくる組織の機構の名前まで、どこからどこまで、どうだということまで決められています。これもおかしい。日本の自治体は機関委任事務がなくなった地方分権一括法ができて初めて、国の殻がたてまえ上なくなって、これから市民団体に衣替えをする時期です。それを「参加型システム研究所」は、一つ一つ実践していく場所なのではないかと思っています。

 もう一度戻りますが、あらゆる団体を市民団体として考え、市民が制御していくためにさまざまな仕組みを考えていこうじゃないかということを申し上げたかったのです。その根本の話だけを最後にしたいと思います。

 国家とは、大きく被さって国民を包み込んでいて、そこで国民の福祉を面倒みてきた。これが今までの国の家の姿です。雨が降っても雪が降っても大丈夫なように、全部囲い込んでいるということ。これを、もう少し窓もつくって風通しをよくして、屋根はこんなに大きいものでなく小さくする、これがこれからの課題です。屋根を小さくして、その下、基礎社会と私は呼びますが、ここが市民社会です。市民の基礎社会は、覆われる必要はない。風通しもあって、ある場合には雨も凌がなければいけないけれど、最低限のものはちゃんと機構としてつくっておくというのが、これからの政府の、あるいは社会のあり方です。

 この屋根は三つからできています。一つは政府、一つは産業、一つは市民団体です。こういうふうに、三方からなっている屋根だと思います。それをコントロールする仕方が、いま言っている市民制御の仕方です。これをコントロールするためには、市民社会自体がしっかりできていなければいけないでしょう。市民社会がしっかりしているということは、当然のことですが、個人がしっかりしているということです。その場合、ここにはサークルがたくさんできます。家族もできるでしょう。あるいは市民のサークルもできるでしょう。たくさんサークルができて、集団がたくさんできます。それがコミュニティです。あるいはそういうアソシエーションがいっぱいできたものがコミュニティです。ここがしっかりできていれば、この民度がしっかりしていれば、ここをコントロールすることが可能なわけです。その場合の一番のポイントは何かというと、労働です。働くというのは、普通の文化を営んでいるわけですが、人々は価値を生産するためには、産業セクターと関わってしか価値を生産できません。ですから、そこで労働するわけです。労働が強制型の労働、要するにつまらないけれど金のためだけで行なわれているのなら、この関係は絶対によくなりません。セレクト・エンプロイメントという言葉は、これにはびっくりしましたが、19世紀にちゃんとあるんです。自己雇用です。自己雇用の集合体がワーカーズ・コレクティブです。ここの部分がしっかりしてくるのを、アソシエイティブ・デモクラシーと今は呼んでいるようです。要するにアソシエイションがデモクラシーをつくっている。集団民主主義、あるいは結社の民主主義は、実をいうと協同組合とか、労働組合とかの集団が18世紀の末から19世紀につくり出されたときに、アソシエイティブ・デモクラシーの原型ができた。いまそれが全部つぶれているといわれています。なぜつぶれたのかというと、その集団がだんだん、だんだん大きくなって、そうしたら、その集団は超然たる組織になってしまう。そのために、集団が逆に市民との関係を切ってしまって、市民に対して抑圧的になってしまう。世界的に全部そうなった。多国籍企業を考えてみてください。そこで、もう一回アソシエイティブ・デモクラシーの原点に戻ろうという議論があります。これが協同組合主義にしてもそのほかの問題にしても、非常に重要な問題ですので、その問題と参加型システムというのも、かなり密接な関係があるのではないかと思います。