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第5回月例研究会

参加論の再構築の視点

栃本一三郎(上智大学助教授)


 今日は、参加型システムをこれから考える上でポイントになるようなことを、いくつか提案してみようと思います。コミュニティ・ワークとか、コミュニティ・サービス、そしてボランタリーなさまざまな活動についての考え方についてもお話しいたします。

■参加のパラドクス

 最近は、やたらと「参加」といいますが、「参加を論ずる」ことと、「参加する」のとは全然別のことです。愛を論じる人は多いけれど、本当の愛を経験している人は少ない。もう一つ、愛はハッピーエンドにはなかなかなりにくい。参加もそういうことがあると思います。また愛はいつか呪縛と化す可能性があるということ。参加も愛も、最初は誰でも心がときめいて嬉しいんですが、その後いつしか参加が義務となり、参加に疲れてしまって、別の道を歩もうということになったりすることがあるということです。

参加のパラドクスみたいなものがあって、そういうことも参加を論ずるときには、実は重要だと思います。

 また、愛は移ろいやすいものです。金子郁容さんはフラジリティとか、脆さとか弱さとか、バネラビリティとか言います。ある意味では参加の結合の仕組みとか、参加のルールは、強さではなく、弱さとか曖昧さとか、危なげな部分なんです。そういうようなことも含めて、今日は「参加論の再構築の視点」ということをお話します。

■兼業研究者であるということ

 私は大学院進学前に、「社会を知らない社会学者にはならない」という大見得をきってサラリーマンになりました。大阪の電機メーカーにいって、木造二階建て三階建てのプレス工場で、餅つき機とかパン焼き機とかをつくっている姿、メーカーの実相をみました。とにかく関西では大変な思いをしました。建て前ではない本当の世界です。だから、サラリーマンがいかに大変か、どういう気持ちで仕事をしているか、空気を嗅いだだけですがよくわかります。NPOだけ論じている人にはわからないでしょう。

 その後、政府系の研究機関で、社会保障関係の研究をずっとしていました。

さらにその後、行政官をしました。だから、役所の掟みたいなものもよくわかりましたし、国がどういうかたちで動くのかというのもよくわかりました。「民」をどう思うかもよく理解したつもりです。

 その次に、参議院の仕事をしました。立法府というのは、普通は法律をつくるところというけれど、実は審議しているのであって、そういう意味でいうと、行政のチェックの方に力点があると思います。

 あと、かながわNPO大学で、何回か講座を持たせていただきました。政策形成力の支援を続行中ですが、たぶん、そのうち効果が出ると思います。他に、自宅のサロンでの“公共圏づくり”も作業中です。それから実際の福祉現場でいろいろな関わりを持っています。

 そのような経験から、それに没頭していることで、逆に「ここにあってそこにない」とか、「ここにあってここでは実現できないこと」というのを、切実に思います。それぞれに没頭すること、逆に「ここにあってそこにない」という、「参加」と「距離化」といいますが、その感覚を研ぎ澄ましたということがあります。また民間企業と行政、立法府、さらに大学や非営利というそれぞれの立場に身を置くことで、「相対化」ということを学びました。

 もう一つは、実践と研究と教育の相互浸透ということを、ようやく自分の中で形成できるようなめどが立ったので「兼業研究者」ということを考えました。例えば国家社会政策などを研究する人は、社会のリアリティを掴んでいないとできません。本当の意味で参加論を議論する際には、やはり実践と研究、相互作用を徹底的にして、そこから練り上げることが大切だと思います。

 ということで、これからこの「参加型システム研究所」も本当の意味で市民派の研究機構になる場合には、実践と教育と、まさにそういう作業を、市民活動とか市民事業というかたちでさ結びつけながら行われていくことが必要だと思います。

■人生における時間配分が決め手

 もう一つは、「家庭責任」と「仕事」の両立を実際に行っているから「兼業研究者」なんだということです。

参加といっても、現在のわが国における人生の時間配分からいって、社会システムを変えないと、実際には参加なんかごく一部の人にしかできないですよ。

ただ、あるプログラムをつくることによって、拡大することは可能です。それがデザインということです。

徐々に公共圏を拡大することによって、そういう就労スタイルを大きくしていく。そして資本主義経済の中にあって、別の原理、別のロジックで時が過ごせるような空間、生活が送れるような空間というのをつくり上げていく作業は、これからかなり具体的に可能な時代になると思います。

 要するに、仕事以外の時間帯をどのくらい取れるかによって、「参加」が現実味を帯びてきます。いわゆる通常の商品化された労働以外の自由時間をどのぐらい持てるかが「参加論」の場合、この点が重要です。そういう意味では、参加は労働時間を減らさないと無理である。

■地球環境、生涯教育、国際協力、社会福祉

これからの「地域」と「行政」、「個人」そして「福祉」はどのように変わるのか、変わらなければいけないのかということですが、参加がなぜ必要かという議論の前提というか、理屈付けになるものです。

 地球環境とか生涯教育とか国際協力、社会福祉という視点が重要だとよく言われます。この四つの領域は、これからの社会の中で非常に重要なポイントです。

これからこの四つの視点が重視されるし、また、個人の生き方としても、この四つを考えながら生きていくということが、21世紀の市民としては、極めて大切だと思います。

■四つの領域を誰が担うのか

 それと同時に、この四つの領域は行政だけでは絶対できないし、させてもいけない領域なんです。行政であるとか、場合によっては市場(マーケット)、市民、非営利が担わなければいけない。ではそれは何によって実現するか。重要なのは、行政、マーケット、非営利の市民活動の拮抗関係だと思います。

■参加を担う市民と専門家の関係

 21世紀の社会づくりと言った場合、専門家と市民の協働、専門家と市民の新しい関係も重要です。参加を担うのは市民自身ですが、多少ちょっと違う人の意見を聞くのは必要です。そういう意味で、参加する人たちをファシリテートするには、専門家は役に立つと思います。

 ただ問題は、専門家と市民とどういう関係をつくるか。外部のファシリテータは参加をやっている本人ではないから、参加の中の人たちのロジックだけを当てはめちゃ駄目なんです。外部の協力者に対する関係の仕方も参加論に関しては重要だと思います。

■分権国家へは参加が不可欠

 よく地方分権といわれます。しかし、分権を本当の意味で内実化させるには、住民参加と市民参加は欠かせません。特に政策をつくる場合に、いろいろなかたちでの参加を求めないと、これは難しいと思います。

■人間の全体性を顧慮した社会へ

 システムの側からではなく、人間の存在の問題として、地域とか行政とか個人とか福祉というのは変わらなければいけないということです。近代産業社会の中で、人間の全体性に対する配慮を怠った時期があるわけです。しかし、人間一人ひとりの全体性を配慮した社会にもう一度つくりかえることが必要で、コミュニティとかボランタリーワークとかが必要とされる理由でもあります。

20世紀は福祉国家が肥大化しました。20世紀の福祉国家をもう一度解体して総括して、いい意味の福祉社会につくりかえる作業が必要です。これからの福祉に求められることは、自発的な意思から始めなければいけないということです。そろそろ福祉が、本来的な自発的な意思から発したものに変えていく必要がある。それと同時に改革も、ボランタリーな位置から始め、自発的に、自ら変えていくことが必要だと思います。

■コミュニティ・サービスとコミュニティ・ワーク

在来型地域福祉ではなく、これから重要なのはコミュニティ・サービスではないかと思います。さまざまなコミュニティの需要があり、問題はその割り振りをみんなで考えるということです。地域の人たちが議論しながら決めていくことが必要だと思います。

 同時に、特に最近の問題は、福祉とそれ以外との境界領域で発生する。国とか自治体の行政の考える社会福祉事業とか社会福祉で収まりきらないものが、どんどん出てくる。むしろコミュニティ・サービスとしてやらなければいけないというように考えた方がいいと思います。コミュニティ・ワークというかたちは、自分たちはこういうことができると、それが生き甲斐にもなるようなものであればいいわけです。場合によってはそれで生活できなくても構わないということだと思います。そろそろ、コミュニティ・サービスという発想で福祉を語る時期が来たと思います。

■社会の中の社会文化的なボリュームを拡大する

 市民社会の方がある程度のボリュームになってくると、時間配分が違ってくる。経済関係ではなく、社会文化的(モラル)な関係が応分の大きさになってくる。そして、経済活動の一方で、家事もふくめた地域でのさまざまな働き方が拡大します。

 問題は、この地域での働きをどのぐらい多くできるかということです。そして、それは社会における経済関係のボリュームと、社会文化的な関係というもののボリュームを変えることでもあります。前提は、生活時間配分がどう変わるかということです。

■ボランタリーな社会関係

 『ボランティアへの招待』でも書いたのですが、コミュニティ・サービスとは、要するにボランタリーな意思を持った人を後押しするということです。実際社会関係も生み出しているし、経済や文化も生み出しているし、経済的な効果も生み出しているからです。

 社会的な関係を生み出しているということは、ソーシャル・キャピタル、社会的資本をつくっているということでもあります。社会的資本とは、人と人との信頼関係や、情報の行き来が可能となるネットワークなども含まれます。。社会的資本により厚みが出てくると「内発的な発展」が可能になるし、それぞれ市民一人ひとりの具体的なエンパワメントが可能になるということです。

■脱市場/非市場化、脱商品/非商品化

 現代福祉国家の中で共通して議論されているのは、あまりに市場化してしまったり、あまりにも商品化されてしまった状態を、いかにして脱市場、非市場的なものにしていくか。全面的に商品化されたり、市場化されてしまうことで、人間の持つ領分が満たされない。それと同時に、やたらと経済負荷がかかったり、環境負荷がかかる社会ですし、全部他人任せにする。

 したがって、これからは、先進諸国は脱市場、脱商品化。それ以外の国々にとっては「非商品化」という意識を持つことが、むしろ地域の人たちのエンパワメントにつながるし、幸福感につながっていくということです。

■「参加」の本質と周辺

 金儲けを目的としないで集まってきた人たちの営みはどういうプロセスを踏むかということですが、まず@自発的参加ということです。それが新しいコミュニティをつくる端緒になります。

 次はA「情報拠出」です。集まった各々の人々が、「サムシングをもちより、情報を提供し、交換する」ということです。情報を交換したりすることによって、B「関係の変化」が生まれる、金子郁容さん風に言うと、コミュニティのなにかが変化し、新しい関係性が生まれる。互いを知らなかった人々が、新しい関係を結んでいくということです。

 そして、次はその関係がある程度パターン化して、お互いが具体的な成果を生み出していくということ。そして、その成果を生み出す中で、活動とか社会について、新しい意味を発見していく。そして、周りに対して誘発していくということです。金子先生はこうした一連のプロセスが、新しいコミュニティにとって欠かせないといっています。

 もう一つ、参加は、マーケットとは距離をおいたオーガニックな関係です。組織は権威者によってコントロールされるのではなく、セルフガバナンスの原理に基づきます。

もう一つは、「まじめはだめ、強さはだめ」で、これも金子さんの受け売りですが、参加はボランタリーな姿勢でつくられたものだから、あまり強固な関係になると、活性力が衰えます。あいまいさとか危うさを最大限活かすようなかたちを考えないと、情報は出てこない。

 それ以外には、参加のコスト論です。自主的な参加が可能となるための条件は、参加者自身にあります。もう一つは、先ほどの専門家と市民との関係です。以上述べてきたことは参加論に対する考察であると同時に、 「システム研」のあり方・運営にあたっても当てはまることです。アーンスタインの参加の段階というのもよく言われることです。

 本当の意味での参加ということになると、パートナーシップとか、権限委譲とか、シチズン・コントロールというかたちになる。どの部分が今実現されているのか。それと同時に、どの部分が主体として実現していると思い込んでいるのか。客体として、どういうかたちで位置付けられているのかということを推し量りつつ、参加の議論をしていかなければいけないということです。

 具体的な参加を得るということでは、グランデット・ワークとかPMO、いろいろな参加のやり方があります。

 参加については、互恵も重要です。互いの立場を尊重したり、互いが対等であるということを、心底から考えなければいけない。

 もう一つ重要なのは、相手に利得をもたらすということです。だからソーシャルキャピタルなどを地域でつくり上げようと思ったら、信頼関係が必要です。信頼関係も、ガチッとなると呪縛になるから、ちょっとふまじめで、呪縛にならない形だけど、パターン化することは必要なことだと思います。先ほどの愛と参加の類似性の部分です。

 参加論については、いろいろなかたちでの議論ができるし、またしていく必要があると思います。

 今日は非常に短い時間だったので、お話したことを十分咀嚼していただけたかどうかわかりませんが、どうもありがとうございました。