●3月31日(土)午後5時から7時
●神奈川NET大会議室
千葉県知事選挙もああいう結果になり、無党派の反乱だとか、既成政党への厳しい評価というような言葉が新聞に躍っています。けっして日本の政治社会や民主主義の前途については悲観しなくてもいいという手ごたえを、最近の地方選挙を見るにつけ感じます。
しかし、永田町における政治のどうしようもない状態(メルトダウン)と地方における市民社会の活性化という、まったく両極端の現象の大きなギャップを見るにつけ、地域レベルでの市民社会のエネルギーをどうやって国政レベルでの政治の変革につなぐのか、そのチャンネルを作る作業の難しさについて非力を感じています。
今日は国レベルの政治の現状と地方レベルの政治の現状とを整理するという程度のお話しかできなということで、私自身の非力さとか、悩みみたいなものを披瀝するという点で、あらかじめご容赦ください。
国政をみると、20世紀の政治が本当に終わっているとつくづく感じます。自民党政治は、あるいは日本の戦後政治は、20世紀型政治を凝縮したような仕組みを作ったわけで、ほとんどありとあらゆる産業について保護の仕組みを作り、20世紀的な利益分配の政治を完成させました。そういう中で、政治は基本的にサンタクロースの役割を果 たしてきた。欲求充足の社会的な平準化が目標で、この意味での政治の活動を支えていく実行部隊として官僚が大きな力を持っていた。こうしたサンタクロースの政治を支えてきた基本的な条件として、経済発展、物的な成長があった。そして、20世紀の政治は、組織が政治参加の基本的な単位 というところに特徴があります。この組織、団体も、20世紀的な現象です。
ところが、この10年ぐらいで、20世紀型政治を支えてきた条件が急速に崩壊してきました。ひとつは、成長とか発展がストップしてしまい、分配をしようにも、元値になる富が膨らまないという問題があります。
政治制度の制度疲労については改めて言うまでもなく、日本では本来、さまざまな地域や業界からの需要・要求に沿って富を分配してきました。しかし、いつ頃からか政策を供給するシステムのほうが固定化し、いわば供給側が需要を作り出すという倒錯した現象が続いています。需要と供給のミスマッチは、悲劇的なぐらいに深まっていて、またグローバリゼーションが進んで護送船団型の保護ができなくなった。そういう時代の変化に対応して、改革を叫ぶこと自体には、それ相応の必要性、必然性があった。
改革というスローガンを掲げながら世論の支持を集めて政権を運営していく手法を、私は「改革政治」と呼んでいます。今から10年ぐらい前から「政治改革」という言葉が盛んに叫ばれるようになり、選挙制度を中心としていくつかの「制度改革」が行なわれました。次に90年代の半ば過ぎぐらいからは「行政改革」というスローガンで、省庁再編を中心とした大規模な制度の改変が行なわれました。そして90年代末から21世紀にかけては、教育とか憲法といった争点について「改革政治」の波が及んでいます。
そこには、ある種の共通したサイクルを見出すことができます。つまり、現状の閉塞状況をもたらした根本的な原因を探る議論がまずあります。たとえば選挙制度とか、省庁の組織とか、それぞれの業界人にとっての足元を支えている基本的な制度が槍玉 に上がる。根本的な制度をガラッと変えることによって、革命的に変えるという言説が世論の中で力を得る。そこで審議会を作って、根本的な制度の改変について、マスコミを巻き込んだ大きな議論がおこり、選挙制度や省庁再編といった制度改革が実現をする。しかし、変えてみたけれど、問題は何も解決しない。そこでまた次のターゲットを探す、このサイクルが3回ぐらい回ったという感じです。制度を変えたけれど、政党は相変わらずの体たらくで、まさに健全な活力ある政党政治を作るといったスローガンとは逆の方向にどんどん動いてしまった。それで今の自民党の体たらくがある。
この一連のサイクルを私は「改革のせり上げ」と呼んでいます。制度を変えたけれど、やっぱり駄 目だ。じゃあ何が悪いんだということで、より根本的、より大規模、あるいはより高まいなレベルに改革のターゲットを求めていく。大仰な議論が進む。こうしたサイクルの3巡目ぐらいで、とうとう憲法までエスカレートしている。
最近の制度改革の審議会のペーパーをみますと、司馬遼太郎のできそこないみたいな作文を前につけて、やたらと格調を求める。本来、改革はドライなものです。政策形成を行なっていく際にある邪魔をどけるというのが改革の本来の姿で、 逆に、地方分権みたいにある程度成果 を勝ち取った改革は、あまり大仰な作文はないんです。地方分権の場合は、河川とか農地とか、具体的な課題で法令のどこがおかしいかを一個一個つぶす議論をしていって、省庁の当事者と議論して変えていった。そういう積み上げの中で、機関委任事務廃止という成果 を勝ち取ることができたのです。実際に世の中を変えていくのは、具体的に市町村が「国の法令のここがやっぱり都合が悪いから変えてくれ」という議論で、この点は、今後の重要な教訓だと考えています。
私がいま一番恐れているのは、仮に制度改革が実現したとして、今の日本の政治の閉塞というのはそう簡単には変わらないだろう。そうすると、制度改革幻想の行き場がなくなり、憲法をいじったら、もういじるべき制度が他に残っていない。制度が悪いという議論ができないとすれば、石原慎太郎が言っているように、どこかにスケープ・ゴートを見つけて、そこに矛盾のはけ口を見いだしていく、デマゴーグと非寛容な政治になっていく危険性があるわけです。そうさせないために、どうするかという問題がひとつあります。
もうひとつ、自民党政治の最終段階について考えてみると、明らかに政党政治は劣化してきています。森を総理大臣にして1年続けるという自民党は何なのかということを、ちゃんと考えなければいけない。永田町が変になったのは、私は政治家が権力欲を失うことが最大の問題だと思います。今の政治家の権力欲とは、実は少欲です。自分はいつも与党にいたい、いつも与党の中の主流派にいたいという欲なんです。自分がトップに立って諸々の国政の課題を解決しようという欲じゃない。
ですが、やはりもっと注目すべきなのは、保守的な地域基盤が融解してきていることです。最近の政治社会の変化は、都市と農村のギャップがなくなってきているということで、農村的な地域においても、自民党の政治基盤は緩んできていて、自民党は足元から崩れてきています。20世紀的な意味での政策による利益配分のありがたみも明らかに減ってきています。いらない公共事業に補助金がついて、消化しているというのは日常茶飯事で、旧態依然たる公共事業をやったって地域はぜんぜんよくならないという実感に根ざした問題意識は、農村部でも自治体職員や地域の経済人に広がっています。
ですからよいリーダー、よい候補者が選挙に出てくる、あるいは、運動側で全体をうまくまとめるようなリーダーシップが現れてくる条件が揃えば、潜在的な問題意識はかたちをとって表に出てくると思います。
そういうわけで、自民党政治は最終段階に入ってきていますが、これが壊れたあとどういう方向に国政が転がっていくのかについてはあまり楽観は許されません。ともかく、もうすぐこのシステムは終わると確信していいだろう。そのことを前提として、どういう戦略、どういうシナリオを描くのかについて、もうちょっとわれわれは議論をしなければいけません。
この10年で一番変わったのは地方政治だろうと思います。先ほども申しましたように、自民党の保守的な地域基盤は求心力を失って崩れてきている。そのことは、別 の側面からみれば、従来、後援会や農協などの業界団体等の中に組み込まれていた人々が、自己決定を求めているということです。そういう中で、個人を単位 とした民主主義を支えるデモクラティックな潜在能力、ポテンシャルが高まってきています。
もうひとつ、直接市民が動きを作ることによってものごとを変えていくという政治のスタイルが一般 的になってきたのも、大きな変化です。
90年代に入り、あちこちで新しいタイプの首長が誕生してきた。出自は官僚であったり、自民党にいたことのある政治家であったりするけれど、発想とか政策的なテーマの選択という意味では非常に新しいものがあり、かつ支持基盤についても伝統的な組織に依存するのではなく、自然発生的な、またはアモルファスな不定形な住民の運動によって支えられた首長が誕生してきました。
時代状況の変化というのは何かというと、分割可能な利益から分割不可能な利益に21世紀は転換すると、私は最近言っています。21世紀は、分割可能な政策とか財がだんだん枯渇してきた。ひとつは財政危機です。分割不可能なテーマが、21世紀の政治の中では最大の課題になることは不可避です。そういう中で、分割統治する自民党の方法論がもはや当てはまらないということになってまいります。そういう意味で、求めるべき利益が変化してきているということを真っ先に意識して、政治の手法を変えるということに取り組んでいる人たちが、最近注目を集めている地方の一部の知事たちなんだろうと思います。
変化を求める民意が普遍化、共通化しているということもいえます。たとえば青年会議所でも、いつまでも政治家に頼って陳情して、国から政策を下ろしてもらってという発想では俺たちはつぶれるぞということは、ビジネスの世界にいる彼らはわかっているんです。だから、何か新機軸を求めてやらなきゃいけないという問題意識はある。必要があれば住民投票のような運動に参画する可能性もあるし、新しいタイプの首長を選ぶような運動に参画をする可能性もあるわけです。また、新潟県の巻町にしても、徳島の吉野川の可動堰の問題にしても、反対の運動を支えてきたのは地域名望家で、本来保守の側に立つような人たちです。
余談になりますが、加藤紘一さんに3週間ぐらい前に大学に来てもらい、「自民党の現状を語る」という講演をしてもらい、いろいろと討論をしました。彼はそれなりに政治社会学的な分析をしていて、日本における保守とはエスタブリッシュメントで、地域名望家、地域リーダーが一番根底にある。革新とは、要求する側、ようするに要求貫徹という動機で政治に参加してくる人たちだ。だから統治に責任を持つのは保守の側でしかなかったと言うわけです。ところが自民党が最近駄 目になってきているのは、そういう地域における保守のエスタブリッシュメントがどんどん先細ってきて、いなくなっちゃった。その空洞化を埋めるために、自民党が宗教団体と手を結ぶことを彼は批判をします。
空洞を埋めるについての分析は私も同感しますが、彼の言うエスタブリッシュメントと要求するという二分類を、むしろ私は疑問に感じます。自民党がここまで権力を維持できたのは、要求する側が巧妙に組織化したということも確かで、いわば両面 をがっちり押さえ込んで、地域の政治基盤とを支えてきたわけです。単に要求するのではなくて、地域的な課題について、反対する人を説得してどうしてもいるものは作る、決定するという地域統合を支えてきた名望家層が空洞化した。そのあとを埋めるのは何かというと、それはまさに最近出てきた新しいタイプの市民の活動、市民の運動しかないんだろうと私はみています。
そういう意味でいえば、最近のいくつかの地域での政治運動は、目先の利益を我慢してもうちょっと中期的、長期的な地域にとっての利益を考えるという性格をもっていると思っています。札びらで人間の心を買取るような政策に対抗して、まさに地域の公共性を守るという運動を各地でやっていると私は思いますし、そういう意味では、市民社会というものの基盤が徐々に出来てきているんだと考えています。
私は、最近の政治評論のスローガンは、「モア・デモクラシー」−「より多くの民主主義」だと思います。これは19世紀末から20世紀初めにかけて、アメリカの州、都市での政治改革運動の中で出てきたスローガンです。当時のアメリカは、ボス・マシーンシステムというのがあり、自民党の後援会みたいなものが都市政治を牛耳っていた時代です。そこで政治の透明化、腐敗の防止という運動が出てきました。
分割不可能な利益にかかわる問題をどうやって公共的に意思決定するかということを考た場合に、今までのような代表システム、代表民主主義では、うまくいかないだろう。三重県の北川さんが、県がいろいろな団体に出している補助金を全部切ったことがあります。なぜそんなことができたのか。北川さんは、県の補助金の実態をすべて県民にオープンにした。そうすると、何に使っているのか、役立っているのかということを当然みんな疑問に思うわけです。県の財政を少しでも自分の懐具合の延長線上で考える人が増えてくれば、無関心を前提とした代表民主制の基盤が崩れてきます。
政治家が具体的な政策争点に関して、どういう意思表示をしたかということを、みんながちゃんと知る。そのことを、政治家の評価に直結して次の選挙でみんなが意思表示をする。そういうふうになっていけば、従来の代表民主制の限界とか問題点というのは、かなり克服できるのではないかと思います。
では、代表民主主義の機能不全を議論していくときに、民主主義に代わるシステムに置き換えるということはできるわけはない、それはもっと悪くなるに決まっている。ですから、現存する民主主義の問題点を克服するには、より多くの民主主義を実現していくということが唯一の手掛かりになっていくと思います。
ローカルパーティは、地域レベルの問題を解決していく中で、既存の政策や法体系の問題点を掘り起こしていき、テーブルの上に乗せていく作業を、これからしばらくの間は進めていく必要があると思います。
首長選挙はかなり面白くなってきているので、あとは議会をどうするか、県庁や市役所の役人をどうするかという問題。 「モア・デモクラシー」をいろいろな地域で可能な限りやって、関心を持つ人間を少しでも増やすことが最大のポイントだろうと思います。 今後地方財政の危機がより深刻化していけば、従来の地方議会の政策能力の欠如はますます明らかになり、地方議会でも種の交代は起こり得ます。いま必要なことは、21世紀的な課題についての対応をしっかり議論して、ストックを作っぐらいで、とうとう憲法までエスカレートしている。
最近の制度改革の審議会のペーパーをみますと、司馬遼太郎のできそこないみたいな作文を前につけて、やたらと格調を求める。本来、改革はドライなものです。政策形成を行なっていく際にある邪魔をどけるというのが改革の本来の姿で、 逆に、地方分権みたいにある程度成果 を勝ち取った改革は、あまり大仰な作文はないんです。地方分権の場合は、河川とか農地とか、具体的な課題で法令のどこがおかしいかを一個一個つぶす議論をしていって、省庁の当事者と議論して変えていった。そういう積み上げの中で、機関委任事務廃止という成果 を勝ち取ることができたのです。実際に世の中を変えていくのは、具体的に市町村が「国の法令のここがやっぱり都合が悪いから変えてくれ」という議論で、この点は、今後の重要な教訓だと考えています。
私がいま一番恐れているのは、仮に制度改革が実現したとして、今の日本の政治の閉塞というのはそう簡単には変わらないだろう。そうすると、制度改革幻想の行き場がなくなり、憲法をいじったら、もういじるべき制度が他に残っていない。制度が悪いという議論ができないとすれば、石原慎太郎が言っているように、どこかにスケープ・ゴートを見つけて、そこに矛盾のはけ口を見いだしていく、デマゴーグと非寛容な政治になっていく危険性があるわけです。そうさせないために、どうするかという問題がひとつあります。
もうひとつ、自民党政治の最終段階について考えてみると、明らかに政党政治は劣化してきています。森を総理大臣にして1年続けるという自民党は何なのかということを、ちゃんと考えなければいけない。永田町が変になったのは、私は政治家が権力欲を失うことが最大の問題だと思います。今の政治家の権力欲とは、実は少欲です。自分はいつも与党にいたい、いつも与党の中の主流派にいたいという欲なんです。自分がトップに立って諸々の国政の課題を解決しようという欲じゃない。
ですが、やはりもっと注目すべきなのは、保守的な地域基盤が融解してきていることです。最近の政治社会の変化は、都市と農村のギャップがなくなってきているということで、農村的な地域においても、自民党の政治基盤は緩んできていて、自民党は足元から崩れてきています。20世紀的な意味での政策による利益配分のありがたみも明らかに減ってきています。いらない公共事業に補助金がついて、消化しているというのは日常茶飯事で、旧態依然たる公共事業をやったって地域はぜんぜんよくならないという実感に根ざした問題意識は、農村部でも自治体職員や地域の経済人に広がっています。
ですからよいリーダー、よい候補者が選挙に出てくる、あるいは、運動側で全体をうまくまとめるようなリーダーシップが現れてくる条件が揃えば、潜在的な問題意識はかたちをとって表に出てくると思います。
そういうわけで、自民党政治は最終段階に入ってきていますが、これが壊れたあとどういう方向に国政が転がっていくのかについてはあまり楽観は許されません。ともかく、もうすぐこのシステムは終わると確信していいだろう。そのことを前提として、どういう戦略、どういうシナリオを描くのかについて、もうちょっとわれわれは議論をしなければいけません。
この10年で一番変わったのは地方政治だろうと思います。先ほども申しましたように、自民党の保守的な地域基盤は求心力を失って崩れてきている。そのことは、別 の側面からみれば、従来、後援会や農協などの業界団体等の中に組み込まれていた人々が、自己決定を求めているということです。そういう中で、個人を単位 とした民主主義を支えるデモクラティックな潜在能力、ポテンシャルが高まってきています。
もうひとつ、直接市民が動きを作ることによってものごとを変えていくという政治のスタイルが一般 的になってきたのも、大きな変化です。
90年代に入り、あちこちで新しいタイプの首長が誕生してきた。出自は官僚であったり、自民党にいたことのある政治家であったりするけれど、発想とか政策的なテーマの選択という意味では非常に新しいものがあり、かつ支持基盤についても伝統的な組織に依存するのではなく、自然発生的な、またはアモルファスな不定形な住民の運動によって支えられた首長が誕生してきました。
時代状況の変化というのは何かというと、分割可能な利益から分割不可能な利益に21世紀は転換すると、私は最近言っています。21世紀は、分割可能な政策とか財がだんだん枯渇してきた。ひとつは財政危機です。分割不可能なテーマが、21世紀の政治の中では最大の課題になることは不可避です。そういう中で、分割統治する自民党の方法論がもはや当てはまらないということになってまいります。そういう意味で、求めるべき利益が変化してきているということを真っ先に意識して、政治の手法を変えるということに取り組んでいる人たちが、最近注目を集めている地方の一部の知事たちなんだろうと思います。
変化を求める民意が普遍化、共通化しているということもいえます。たとえば青年会議所でも、いつまでも政治家に頼って陳情して、国から政策を下ろしてもらってという発想では俺たちはつぶれるぞということは、ビジネスの世界にいる彼らはわかっているんです。だから、何か新機軸を求めてやらなきゃいけないという問題意識はある。必要があれば住民投票のような運動に参画する可能性もあるし、新しいタイプの首長を選ぶような運動に参画をする可能性もあるわけです。また、新潟県の巻町にしても、徳島の吉野川の可動堰の問題にしても、反対の運動を支えてきたのは地域名望家で、本来保守の側に立つような人たちです。
余談になりますが、加藤紘一さんに3週間ぐらい前に大学に来てもらい、「自民党の現状を語る」という講演をしてもらい、いろいろと討論をしました。彼はそれなりに政治社会学的な分析をしていて、日本における保守とはエスタブリッシュメントで、地域名望家、地域リーダーが一番根底にある。革新とは、要求する側、ようするに要求貫徹という動機で政治に参加してくる人たちだ。だから統治に責任を持つのは保守の側でしかなかったと言うわけです。ところが自民党が最近駄 目になってきているのは、そういう地域における保守のエスタブリッシュメントがどんどん先細ってきて、いなくなっちゃった。その空洞化を埋めるために、自民党が宗教団体と手を結ぶことを彼は批判をします。
空洞を埋めるについての分析は私も同感しますが、彼の言うエスタブリッシュメントと要求するという二分類を、むしろ私は疑問に感じます。自民党がここまで権力を維持できたのは、要求する側が巧妙に組織化したということも確かで、いわば両面 をがっちり押さえ込んで、地域の政治基盤とを支えてきたわけです。単に要求するのではなくて、地域的な課題について、反対する人を説得してどうしてもいるものは作る、決定するという地域統合を支えてきた名望家層が空洞化した。そのあとを埋めるのは何かというと、それはまさに最近出てきた新しいタイプの市民の活動、市民の運動しかないんだろうと私はみています。
そういう意味でいえば、最近のいくつかの地域での政治運動は、目先の利益を我慢してもうちょっと中期的、長期的な地域にとっての利益を考えるという性格をもっていると思っています。札びらで人間の心を買取るような政策に対抗して、まさに地域の公共性を守るという運動を各地でやっていると私は思いますし、そういう意味では、市民社会というものの基盤が徐々に出来てきているんだと考えています。
私は、最近の政治評論のスローガンは、「モア・デモクラシー」−「より多くの民主主義」だと思います。これは19世紀末から20世紀初めにかけて、アメリカの州、都市での政治改革運動の中で出てきたスローガンです。当時のアメリカは、ボス・マシーンシステムというのがあり、自民党の後援会みたいなものが都市政治を牛耳っていた時代です。そこで政治の透明化、腐敗の防止という運動が出てきました。
分割不可能な利益にかかわる問題をどうやって公共的に意思決定するかということを考た場合に、今までのような代表システム、代表民主主義では、うまくいかないだろう。三重県の北川さんが、県がいろいろな団体に出している補助金を全部切ったことがあります。なぜそんなことができたのか。北川さんは、県の補助金の実態をすべて県民にオープンにした。そうすると、何に使っているのか、役立っているのかということを当然みんな疑問に思うわけです。県の財政を少しでも自分の懐具合の延長線上で考える人が増えてくれば、無関心を前提とした代表民主制の基盤が崩れてきます。
政治家が具体的な政策争点に関して、どういう意思表示をしたかということを、みんながちゃんと知る。そのことを、政治家の評価に直結して次の選挙でみんなが意思表示をする。そういうふうになっていけば、従来の代表民主制の限界とか問題点というのは、かなり克服できるのではないかと思います。
では、代表民主主義の機能不全を議論していくときに、民主主義に代わるシステムに置き換えるということはできるわけはない、それはもっと悪くなるに決まっている。ですから、現存する民主主義の問題点を克服するには、より多くの民主主義を実現していくということが唯一の手掛かりになっていくと思います。
ローカルパーティは、地域レベルの問題を解決していく中で、既存の政策や法体系の問題点を掘り起こしていき、テーブルの上に乗せていく作業を、これからしばらくの間は進めていく必要があると思います。
首長選挙はかなり面白くなってきているので、あとは議会をどうするか、県庁や市役所の役人をどうするかという問題。 「モア・デモクラシー」をいろいろな地域で可能な限りやって、関心を持つ人間を少しでも増やすことが最大のポイントだろうと思います。 今後地方財政の危機がより深刻化していけば、従来の地方議会の政策能力の欠如はますます明らかになり、地方議会でも種の交代は起こり得ます。いま必要なことは、21世紀的な課題についての対応をしっかり議論して、ストックを作っておくことかと思っています。雑駁な話でしたが、とりあえずこの辺で私の話は終わりにします。
文責:編集室